勝五郎の転生②・・・これが〈輪廻転生〉の日本の最もわかりやすい実例だ!

前回の続きです。

勝五郎が、突然、家族に〈前世の記憶〉を話し始めたことこから、大騒動になったのですね。

そしてついに、前世の家を訪ねて、前世だった時の親と会うところまでになったわけです。

ここからは、勝五郎少年から直接話を聞いた国学者の平田篤胤(ひらたあつたね)の話です。

さらに、勝五郎の転生話を『チベットの死者の書』と比較して、〈勝五郎の転生〉の特異性を探っていきたいと思います。

5、平田篤胤の苦心

1、篤胤、勝五郎を家に呼ぶ

平田篤胤が『勝五郎再生記聞』を書くにあたって、篤胤は、勝五郎を自分の家に呼んで、本人から直接話を聞いているのです。

その様子を見てみましょう。

勝五郎は八歳の子どもである。

私(平田篤胤)たちのような大人がいろいろと質問しても、緊張して答えられないだろう。

とりあえず打ち解けてもらうのが先決と、妻と娘、そして嘉津間(寅吉)に頼んで、親しくなってもらうことにした。

勝五郎がこの場に慣れ、打ち解けてきたら、本題の再生話に持っていくようにと頼んだ。

私たちは物陰に隠れて、勝五郎を観察した。

このように篤胤が勝五郎少年から再生話を聞き出すために、非常に気を使っていたことがわかります。

篤胤の苦心の様がよくわかって、面白いですね。

〈平田篤胤(1776年ー1843年)〉

2、あの天狗少年“寅吉”(仙童寅吉)とも会っていた勝五郎

ちなみに、ここで出てくる嘉津間(寅吉)というのは、なんと、篤胤の『仙境異聞』に登場する天狗少年“寅吉”(仙童寅吉)のことです。

寅吉については、ご存知の方も多いかと思います。

天狗少年“寅吉”については、これだけでも非常に大きな問題が含まれている、大変に興味深いお話です。

その天狗少年“寅吉”が、勝五郎とこんなところで接点があるとは、本当に驚きです。

面白いことに、その寅吉(嘉津間)ですら勝五郎は手に負えなかったようで、次のように書かれています。

しかし、やはり妻や娘、嘉津間(寅吉)の質問内容では、とても勝五郎が体験した生まれ変わりの全貌を捉えることができなかった。

三人の知識が貧弱なので、いい質問ができない。

同時に、勝五郎が重要な発言をしても、それが重要だと気づくことができない。

仙境異聞・勝五郎再生記聞 (岩波文庫)

嘉津間(寅吉)は、佐藤信淵(のぶひろ)や伴信友(ばんのぶとも)といった、当時の名だたる学者でも舌を巻くほどの非凡な才能を発揮した天才少年です。

その“神童”寅吉ですら(知識が貧弱なので)、勝五郎は手に負えなかったようです。

(『仙境異聞』天狗少年寅吉(仙童寅吉)については、別のページで詳しく書いていきたいと思います)

3、こうして『勝五郎再生記聞』が書かれた

文政六年(1823年)四月二十二日から二十五日にかけて勝五郎は篤胤の家に遊びにきています。

しだいに勝五郎は篤胤たちに打ち解けていくのです。

二十五日に、篤胤は勝五郎に率直に再生について聞きたいと頼むと、勝五郎は、「ほかのだれもいないところでなら話してもいいよ」と言い、やっとのことでインタヴューにこぎつけるのです。

そうして篤胤がまとめたものが、『勝五郎再生記聞』となります。

以上が、平田篤胤の「勝五郎再生記聞」より、勝五郎の転生話です。

6、『チベット死者の書』に見られる輪廻転生

さて、これまでは、勝五郎の前生の記憶を見てきました。

ここでは、死後の世界を記した有名な『チベットの死者の書』を参考にして、〈勝五郎の再生物語〉と比較してみたいと思います。

勝五郎の生まれ変わりの話とは、かなり違うところがあります。

1、自分が死んでいるという自覚がない状態

『チベットの死者の書』では、人間が死ぬと、三日半ののちに、意識を取りもどす、といいます。

ここで「意識を取り戻す」というのは、どこまでも死んでからの意識であって、生き返るという意味ではありません。

肉体が死滅しても、そのあとに“意識”だけが蘇るというのです。

この時期には、自分の身に起こったことの自覚ができないため、自分が死んでいるのか、死んでいないのかの自覚がない、と『死者の書』はいいます。

この状態を〈チカエ・バルドゥ(中有)〉といいます。

その後しだいに、周囲をはっきりと自覚できるようになっていく。

それと同時に、自分が死んだことを自覚するのです。

〔ちなみにこの部分ですが、私は少し別の見方をしています。

死者が“意識”を取り戻す前には、

「痛い」「苦しい」「つらい」「暑い」「寒い」

といった、〈感覚〉だけの時間があると、私はみています。

〈感覚〉だけの時間がすぎた後に、“意識”を取り戻すのです。

『チベットの死者の書』がいうように、いきなり意識を取り戻す場合もありますが、そうではなく、〈感覚〉だけの時間があるとみています。

ですので、『チベットの死者の書』は死後の世界の描写の点で、この意味で不十分だと私は考えています。〕

2、死後の世界の苦しみを説く『死者の書』

『死者の書』はいいます。

この時に汝は次のように考えるであろう。

《ああ、私は死んでしまっているのだ。私はどうしたらよいのであろう》

と、このように悲しく思っている時に心臓は冷たく、うつろになる。

計り知れないほど激しい苦悩に襲われる。

一つの場所に落ち着くことができずに、歩きつづけなければならない。

このような時にはいろいろなことを思ってはならない。

意識を正常に保つべきである。

お供えされたもの以外には食物も満足に食べる事ができないような時期が、汝に訪れるであろう。

と、「解脱(げだつ)」できない人の死後の苦しみが説かれています。

自分が死んでしまっていることに気づき、激しい衝撃に見舞われるのです。

原典訳 チベットの死者の書 (ちくま学芸文庫)

3、生前の業が、死後の世界を決定づける

さらに『死者の書』では、生前における行いが〈カルマン(業)〉となって、死後の世界へ大きな影響を与えることについても説かれています。

この時における喜びも苦しみもすべて生前のカルマン(業)次第で決まるようです。

汝は自分自身の故郷の地、一族、親戚、自分の死体などを見る事ができる。

《今、私は死んでいるのだ。どうしよう》と考えて、汝の意識からできている身体は非常な悲しみを味わうであろう。

《いま、もう一つ別の身体を持ったところで何の不都合があるだろうか》と考えて、あらゆるところに身体を求めて行こうとする願いが何時に生じるであろう。

汝はそこにある自分の身体に九回も入り込もうとする。

このように自分が死んでしまったことに気づいてから、パニックに襲われ、悲しみ苦しむというのです。

そして、自分の魂が、身体にないことに気づき、それは非常な悲しみと苦しみとなるそうです。

さらに、新しい身体を求めて、苦しむことになると、『死者の書』ではいうのです。

どうでしょう、勝五郎の前世の記憶と『チベット死者の書』で描かれる〈死後の世界〉とはかなり違うと思いませんか。

次章でこのことについてお話ししていきたいと思います。

7、勝五郎は〈シュダオン〉だった

1、普通の人間ではなかった勝五郎(藤蔵)少年

ところで、勝五郎の場合は、その一連の生まれ変わりの記憶の話の中に、“苦しんだ”という話はあまりありません。

苦しみが語られているのは、わずか次の一文のみです。

息が絶えるときは何の苦しみもなかった。

だけど、息が絶えたあとがしばらく苦しかった。

それを過ぎると、苦しいことは何もなかった。

これはどうしてでしょうか?

ここでは、『君は誰の輪廻転生(うまれかわり)か』(桐山靖雄著・平川出版社)を参考に考えてみたいと思います。

この本には、人の輪廻転生(生まれ変わり)について非常に詳しく書かれています。

著者の桐山靖雄師によれば、勝五郎は、ふつうの人間ではないということです。

では勝五郎は、何者だったのでしょうか?

それは『四沙門果の聖者』の〈シュダオン〉だったといいます。

2、四沙門果(ししゃもんか)の聖者

『四沙門果の聖者』とは、凡夫の境界(レベル)を超えた4種類の聖者のことです。

仏教における成仏法の修行をした修行者が、修行が進むに連れて凡夫の境界(レベル)を超えた聖者の四段階のことをいいます。

その四段階とは、

シュダオン(須陀洹)

シダゴン(斯陀含)

アナゴン(阿那含)

アルハト(阿羅漢、アラカン、仏陀)

のことです。

釈迦の伝えた〈七科三十七道品〉の成仏法の修行によって、ひとたびシュダオンの境界(レベル)に達すると、もう二度と〈輪廻〉の苦しみの輪には戻りません。

シュダオンになっていない人は、まだ凡夫の状態です。

まだ輪廻転生の輪から抜け出ていないのです。

それでシュダオンが聖俗の分かれ目となります。

そして、シュダオン→シダゴン→アナゴン→アルハト(仏陀)へと順次進んでいくのです。

シュダオンとは?

〈シュダオン〉というのは、仏教でいう四沙門果(ししゃもんか)の聖者の第一段階の聖者のことです。シュダオンになると、もう二度と、輪廻の苦しみの世界には戻ることはなく、魂は上昇し続けます。

3、第一段階の聖者〈シュダオン〉とは

では、シュダオンとはどのような状態の人なのでしょうか?

それを次にみてみましょう。

勝五郎は、ふつうの人間ではなかったのである。

かれは、シュダオンだったのだ。

その証拠に、かれは、こういっているのである。

「僕は仏様(ののさま)だ。だから何卒僕を大切にして下さい」

と。

ふつうの子供が吐く言葉ではない。

また、先導の聖者(勝五郎の場合は、白い髪のおじいさん)がついている。

これもシュダオンの証拠である。

シュダオンの場合、いうならば、初心の聖者であるから、先導の聖者がつくのである。

シュダオンは、娑婆世界に生まれても、幼少のうちに霊界に還ることが多い。

思うに、世俗にまみれぬ純なこころのまま、霊界にもどるのではなかろうか。

と、このように〈シュダオン〉となった聖者の特徴が述べられています。

続きをみてみましょう。

勝五郎は、前生の藤蔵のとき、六歳で死亡している。

おそらく、この次は、肉体を持たぬ霊のまま娑婆世界にあらわれ、そのあと、シダゴンになるのであろうと思われる。

シダゴンの場合は、大聖者になるか、ひろく世を益する大聖業をなしたのち霊界に還る。

そしてもはやこの世界には還ることがない。

われわれの、案外、身近に、シュダオンの子どもがいるかも知れないのである。

シュダオンの出た家はその例を特別に供養すると、家運が隆盛となる。

子どもは大切にしなければいけない。

勝五郎(前生の藤蔵)の場合は、〈シュダオン〉という聖者の転生だったのです。

ですので普通の人の輪廻転生とは、はっきりと区別して考えておかなければいけないでしょう。

ひとたび〈シュダオン〉になれば、あとはより上の段階(境界・レベル)に上昇するのみですので、転生はするが“輪廻”はしません。

勝五郎は、われわれのような輪廻の輪の中で苦しみ続ける〈凡夫〉ではなく、〈シュダオン〉の聖者だったのです。

君は誰れの輪廻転生(うまれかわり)か

8、おわりに

1、千差万別な〈死後の世界〉

ここまで、勝五郎の前生話を中心にして、『チベットの死者の書』と比べて、その輪廻転生(生まれ変わり)の有様を見てきました。

輪廻転生(生まれ変わり)は、人それぞれに違いがあります。

勝五郎のようにほとんど苦しみをともなわない場合もあれば、逆に、非情な苦しみにさいなまれる場合もあります(この方が普通です)。

無事に人間に生まれ変われれば良いですが、動物や禽獣に生まれてしまうやもしれません。

また、運良く次の人生も人間に生まれてこれたとしても、喜んでばかりではおれません。

生まれつき過酷な身体状況に生まれてくる場合もあれば、極貧困社会や戦争状態の地域に生を受けるなど、非情に劣悪な環境に生まれる場合も考えられます。

人間(を含めあらゆる生物)というものは、とても奥深い存在です。

2、スピリチュアルの”聞きごこちの良い言葉”に乗せられてはいけない!

さあ皆さん、ここまで読まれてどんなふうに感じましたか?

『チベット死者の書』に描かれているように、生前の行いによる業(カルマン)によって、死後の世界(さらに来世の世界)が決まってしまうとしたら・・・

世の中には、人の死後を簡単に苦もなく生まれ変わるとか、魂は上昇し続けるとか、とても聴き心地の良いことを言っている人がいますね。

スピリチュアル系の人がよくいうことですね。

もし、そんなに簡単ならば、今ごろ世の中はもっと平和で、素晴らしい聖人君子ばかりの社会になっているはずです。

でも実際には、そうはなっていません。

ですので、そんな単純なものではないことがわかりますね。

読者の皆さまがこの記事を読んで、より思索を深められることを願います。

そして、素晴らしい現世(来世をも)を歩まれる一助になりましたら、この上ない喜びです。

今後も、ますます〈生まれ変わり〉について探求していきたいと思っています。

次回を、乞うご期待!

9、まとめ

平田篤胤は『勝五郎再生記聞』を書くにあたって、勝五郎を自分の家に呼んで、本人から直接話を聞いている

平田篤胤の「勝五郎再生記聞」や、ラフカディオ・ハーンの「勝五郎の転生」には、前世があることの証明となる勝五郎という子供の記録が残されている

死後における喜びも苦しみもすべて生前のカルマン(業)次第で決まる

勝五郎は、シュダオンという聖者の転生である。

【参考文献】

『異界見聞録6 平田篤胤著「勝五郎再生記聞」』(西田緑編訳・知玄舎POD書籍)

『君は誰の輪廻転生(うまれかわり)か』(桐山靖雄著・平川出版社)

『原典訳 チベットの死者の書』(川崎信定訳・ちくま学芸文庫)

『天狗にさらわれた少年 抄訳仙境異聞』(平田篤胤著・今井秀和訳・角川ソフィア文庫)

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